わがままな「人間」
2004.10.15 Friday
ここのところ、毎日クマ出没の話を耳にする。
「熊」と聞くたびに賢治の『なめとこ山の熊』を思い出してしまい、
久しぶりに読んでみた。
今回読んでみて改めてこの作品の中に描かれている熊と人間・小十郎の
言葉では簡単に表現しきれない関係を味わうことができ、
感動を新たに受けた。(その感動伝えたく、昨日エントリーしてしまった)
クマ出没関連のニュースが数時間もたたないうちに更新されている。
(日本ツキノワグマ研究所なる団体も存在すること知った)
京都府のHP「おこしやす京都」では
クマとの共存図るなんて言われても・・・
「人間」が書いている文章だし、クマの気持ち分からないし
共存なんて簡単に書いてるけど、具体的にどうすればいいかが
全く記されていない。記されていないのは、どうすればいいか
分からないから。そんな事はっきり言って分かるはずない。
だから、軽々に「共存を図る」なんて書いてはいけない。
「もののけ姫」でもそれを描こうとして充分には描ききれなかった。
問題提示にとどまっただけ。結論は中々見えてこない。
自然との共存なんて発想自体がおかしなことに気がつかないと・・・
クマと人間の共存。おかしな話。
まるで自分は自然とは関係・関連ないかのような冷めた表現。
本当は人間だって大きな自然の小さな一部にしか過ぎないのに。
クマだってお腹が減れば行動範囲だって広がるだろう。
そこがたまたま人が住んでいる場所だということで大問題となっている。
でもでも、人が住んでいる場所も自然界の一部。
クマにしてみれば、山も人里も区別ない。同じ自然界。
人間だけが都合よく自分たちの住む場所を切り離し
あたかも人間専用住居場所と捉えているだけに過ぎない。
勝手に自然を線引きしておいて、他が入り込むことを許さないのは如何なものか。
更に話が膨らんで保護しろ!いや射殺しろ!!と、またも勝手に
人間の個々の都合で線引きする。
自分を含めつくづく嫌な思いにさせられる。
自然を対象化し、自然と自分の係わりを希薄にする。
そしてまるで自分とは無関係となると、勝手都合よく弄り回す。
100年前、賢治も答えを出せなかったが、
100年過ぎて、賢くなったつもりの現代人もまたそれ以上に答えを出せないでいる。
「熊ども、許せよ。」
「熊」と聞くたびに賢治の『なめとこ山の熊』を思い出してしまい、
久しぶりに読んでみた。
今回読んでみて改めてこの作品の中に描かれている熊と人間・小十郎の
言葉では簡単に表現しきれない関係を味わうことができ、
感動を新たに受けた。(その感動伝えたく、昨日エントリーしてしまった)
クマ出没関連のニュースが数時間もたたないうちに更新されている。
(日本ツキノワグマ研究所なる団体も存在すること知った)
京都府のHP「おこしやす京都」では
最近、全国各地でクマの出没、人身被害等が発生し、深刻な社会問題となっています。どうも、どのサイトやニュースのコメント読んでもしっくりこない。
今年は、ドングリ類が不作と予想されているうえに、相次ぐ台風の影響で木の実が落ちてしまうなど、クマにとっての餌不足が原因のひとつではないかと言われております。
一方、ツキノワグマは京都府レッドデータブックの絶滅寸前種に登載されており、絶滅が危惧されている種であることから、本府では、クマの個体群の安定的な維持と人身被害の回避及び農林業被害の軽減を目標とした「特定鳥獣保護管理計画−ツキノワグマ−」を策定し、人とツキノワグマとの共存を図ることとしています。
クマとの共存図るなんて言われても・・・
「人間」が書いている文章だし、クマの気持ち分からないし
共存なんて簡単に書いてるけど、具体的にどうすればいいかが
全く記されていない。記されていないのは、どうすればいいか
分からないから。そんな事はっきり言って分かるはずない。
だから、軽々に「共存を図る」なんて書いてはいけない。
「もののけ姫」でもそれを描こうとして充分には描ききれなかった。
問題提示にとどまっただけ。結論は中々見えてこない。
自然との共存なんて発想自体がおかしなことに気がつかないと・・・
クマと人間の共存。おかしな話。
まるで自分は自然とは関係・関連ないかのような冷めた表現。
本当は人間だって大きな自然の小さな一部にしか過ぎないのに。
クマだってお腹が減れば行動範囲だって広がるだろう。
そこがたまたま人が住んでいる場所だということで大問題となっている。
でもでも、人が住んでいる場所も自然界の一部。
クマにしてみれば、山も人里も区別ない。同じ自然界。
人間だけが都合よく自分たちの住む場所を切り離し
あたかも人間専用住居場所と捉えているだけに過ぎない。
勝手に自然を線引きしておいて、他が入り込むことを許さないのは如何なものか。
更に話が膨らんで保護しろ!いや射殺しろ!!と、またも勝手に
人間の個々の都合で線引きする。
自分を含めつくづく嫌な思いにさせられる。
自然を対象化し、自然と自分の係わりを希薄にする。
そしてまるで自分とは無関係となると、勝手都合よく弄り回す。
100年前、賢治も答えを出せなかったが、
100年過ぎて、賢くなったつもりの現代人もまたそれ以上に答えを出せないでいる。
「熊ども、許せよ。」


人間は「人間の都合」以上の都合では生きられない、とまず自覚すべきと思います。もしかして「熊の都合」もあるかもしれませんが、それがどんな都合なのかは、いくら人間が「思いやり」を持って熊を見つめても、到底思い至ることはできないのでしょう。人間が思いやれる「熊の都合」とは、人間の都合に他なりません。ということを自覚した上で、「熊ども、許せよ」と心の中で思いつつ、人に害をおよぼす熊を撃ち殺すことしか人間にはできないのではないでしょうか。それが自然の一部である人間の限界かと思います。
初めまして。コメント&TB有り難うございます。
端的明快ですね。
そうなんですよね、結局はこちら側の都合なんです。
勝手なものです。
ドングリ集めて送る話もありますが、もしかして
それってクマにとっては迷惑かもしれません。
「優しい気持ち」は「有り難迷惑」だったりもします。
クマの都合なんて聞くことできませんからね、結局は。
コメントありがとうございます。
本文にも書きましたが「共存」という発想からして?です。
梅原猛氏は
「人間をそして自然を『循環の体系』として捉える考え方を現代人は失ってしまっている」と書かれています。
射殺するならそうなさい。
愚かな人間よ・・・というとこですかね。