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ブルームーン
"once in a blue moon"


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今夜はひと月に2度目の満月。

サラダでトレーニング
心理テストじゃないですよ。

頭の中で・・・サラダ作ってみて下さい。

場所は自宅のキッチン。
材料は今、自宅にあるものだけです。
美味しいドレッシングも忘れずに!

では、料理スタートジョギング



我が家は曜日によって晩ご飯の準備を分担している。
月曜から土曜まで基本的には妻が作るが
週に2日くらいは自分の担当の曜日。
ちなみに今日月曜もその日だった男

昔、一人暮らしをしていた頃から、外食はあまり好きではなく
なるべく家で作って食べていた。

理由はそれだけではない。
父親が料理好きで、実家では父が台所に立って今でも料理をしている。(らしい)

こんな環境で育ったので違和感なんてまるでなし。
逆に料理を作るのは苦痛でもなんでもなく楽しいこと。グッド

で、話を元に戻して・・・サラダ



お肉や魚など買いだめしない我が家では、料理当番の人が
仕事帰りに近所のスーパーで買い物をして帰る。

メインディッシュはすぐ決まる。
お肉であれお魚であれ、ご飯であれ麺類であれ。

でも、サラダは難しい。しょんぼり
冷蔵庫の野菜室にそれなりの材料がそれなりに残っている。

その「それなりの」量と種類をある程度正確に把握していないと
イメージしたサラダが作れない。

買い物している時に「家にある」と思っていた野菜がなかったり
作りたいサラダに合うドレッシングが底をついていたり…失恋

逆にまだいっぱい残っている野菜を新たに買ってきてしまう不手際も避けたい。

だから、冒頭の頭の中でサラダを作るイメージはとっても難しい。
たかがサラダ、されどサラダ。
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オーソリティー
昨日、桂田さんからいただいたコメントの中に
「予想外のつながりができるのがネットの面白さですけど、あまりに乏しい情報を載せているととても申し訳なく感じてしまいます。」とあった。

これを読んで『朝日新聞』の1999年12月13日付夕刊に掲載された
黒崎政男氏の「ネットが崩す公私の境」という文章を思い出した。
 本の書き手を表す著者という言葉は、英語ではオーサーであり、それは権威(オーソリティー)という言葉と深い関係にある。そして、「著者という権威」の成立は、グーテンベルクの活版印刷術の成立以降である、ということがしばしば語られる。
 活版印刷というメディアとともに、「著者性」というものが発生したのだとすると、インターネットを中心とした電子メディアが、大きな位置を占め始めている今日、「著者」のあり方が、大きな変容を被ってきていることは十分に考えられる。ここにおいては、従来の、権威者の一方的な情報発信と、受動的に享受する多数の読者という上下構造が消失し、著者の権威性の崩壊ともいうべき事態が発生している。だれでもが簡単に「著者」となり得る構造である。
何のためらいもなくネット上の自分の文章を
載せることの現状への警鐘ともとれる名文。

これに続けて黒崎氏は、インターネットの普及によって
「著者」の大衆化を招き、「著者の権威性」を消滅させつつある。と
述べている。これまたもっとも。言い得て妙。

哲学者クロサキの憂鬱 となりのアンドロイド
哲学者クロサキの憂鬱 となりのアンドロイド

自分がこうして駄文を毎日つらつらとupできているのも
まさにこれに当たる。ペン
今では誰もが「著者」気分を簡単に得られてしまう。

よって本来人に見せないものであった「日記」がweb上であふれている。
(自分もまたそれに加わっている一人)

まぁ、日記ならまだ許されよう。読書
そこに何が書かれていても受け手、読み手としては半信半疑で読む。

ところが、たちの悪いのが私の開いているサイトのようなもの。
美術の専門家でも何でもないただの会社員があたかも専門家のような顔して
偉そうに文章をupしている。

これは始末が悪い。

一度upしてしまうと、無制限に広がりもう自分自身ではどうにもならない。
topページの左上に大きく「素人ページ」とでも書いておきたい気持ちに駆られる。

大塚英志「インターネットの〈私〉」
「送り手」と「受け手」の差異の喪失への脅えが見てとれるように思うのだ。インターネットという双方向性のメディアは、「啓蒙する知識人」と「愚かな大衆」という、未だに知識人の大半が心の奥底では依存したがっているであろう枠組みを根本的に解体する。
 粉川哲夫はインターネットを、国家を越境しようとする個人と、それを寡占しようとする国家や企業の対立として図式化するが、そんな対立はいかなるメディアにも見出せるものであり、インターネットにおいていん隠ぺい蔽されている対立とは実は「大衆」と「知識人」のそれである。誰でも発信者となれるインターネットは「啓蒙する知識人」の特権性を支えてきた情報や言説の発信権をいまさらながら無化してしまう。既に解体しつつあったものにとどめをさしてしまう装置としての側面を持つ。
これまた耳が痛い。しょんぼり
 
この辺のルール作りとかこの世界では出来ないのが更に拍車をかける。

最後に一句。
「権威者」もインタネ上ではただの人。




尚、黒崎氏はニーチェのことば(「読書する暇つぶし屋を私は憎む。あと一世紀も読者なるものが存在し続けるなら、やがて精神そのものが悪臭を放つようになるだろう。だれもが読むことができるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることまで腐敗させる。」)
を引用しながら、「だれもが公表できるという事態は、いったい今後は何を腐敗させてしまうことになるのだろうか。」と文章を結んでいる。
ケーキは均等に!
アメリカの倫理学者ジョン・ロールズの「正義の原理」

第一原理
すべての市民は、平等な自由への権利を持つ。

第二原理
a.公正にして均等な機会が与えられる。
b.不平等が存在するときは、その不平等によって有利を得たものは、
  社会の内でもっとも不利益を被っているものに対して、
  その有利を配分しなくてはならない。

この原理からなる「公正としての正義」なら、社会の全員が合理できると彼は述べる。

本当?

もし有利を得たものが自分だと仮定する。
お金が手元にあるとする。
で、そのお金を有利を不利益を被っているものに対して
果たして配分するだろうか?

千疋屋のケーキを例に解説した土屋恵一郎氏の話は面白く分かりやすい。
そうなる前の指南書(^^♪

銀座「千疋屋」のイチゴショートケーキがテーブルにある。
5人でそれを食べることになった。
全員が「千疋屋」のイチゴショートケーキは大好物。
みな、人より大きいところを食べたいと思っている。

5人で食べるのにナイフでケーキを切る人間が、
最後に残ったケーキを食べることにした場合、
このケーキを切る人間はどのようにケーキを切るだろうか?


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行為遂行的発言
先日読んだ本に「行為遂行的発言」についての記述があった。
その時は、あまり気にならなかったのだが、
だんだんと、日をおうごとに、興味の虫が疼いてきた。

パフォーマティヴ(パフォーマティヴィティ)と元々言うらしいこの言葉
翻訳語も幾つかあるようだ。

ジョン・ラングショー・オースティンというイギリスの哲学者が
提唱した概念。これが結構面白い。

例えば「お腹がすいたな〜」と徒然に日記に書く(発言する)ことと、
リビングでかみさんとテレビ観ている時に、同じく
「お腹がすいたな〜」と何気なく発言したことはイコールだろうか?

前者は事実を単に文字にしたためただけの行為。
それ以上でもそれ以下でない。

ところが、後者はその発言が、かみさんをソファーから
立ち上がらせキッチンに向かわしめ、そして何か食べるものを
作らせるという行為に結びつく可能性が高い。

要は、後者の発言の中には「何か食べ物作ってくれない?」という
相手を動かす命令的な要素が含まれていることになる。
(実際多くはなんらかを促す命令的な要素が含まれている)

これを「行為遂行的発言」(パフォーマティヴィティ)と呼ぶそうだ。

イギリス人のオースティンの発見ではあるけれど
これってとても日本人の心にぴたり当てはまる。
多かれ少なかれ、こんな発言をしながら我々生活している。

直接何かを促す発言は控える我々は、古典の昔から
遠まわしな言い方「婉曲」を多用してきた経緯がある。

嘘か真か定かではないが、京都で「ぶぶ漬けでもどうですか?」と
言われたら「そろそろお帰りになって」(長居し過ぎです!)という
意味だとどこかで、聞いたことありますが、これも
パフォーマティヴィティの一種??

まぁ、こんなに婉曲な表現でなくても
「あーー今日は仕事忙しくて疲れたな〜」と家で言えば
「肩でももんであげようか?」とか
「お風呂そろそろ沸かそうか?」といった
肩もみや風呂焚きを促す立派な行為遂行的発言になる。



面白い。面白い!(^^)!
他にどんなことあるかな〜
  ↑
これも皆さんに発言促している行為遂行的発言?!